体の7割が水分 そして体外にある1割が、骨を牽引する重り
これがね、体を鍛えるためのダンベルであれば、何も文句はなかったのだけれど、全くもってそういうことではなく、ただ骨折した骨が膝から脛部分まで裂けたように骨折してしまっているため、骨が本来の方向とは別の方向に曲がってしまうという事を、修正してあげなければならない。
そう、修正してあげなければならない。(大事な事だから二回言った)
そう、修正するためには、ダンベルで牽引するしかない。
しかも、牽引初日は5.5キロだったのに、牽引二日目には、6キロになるおまけつき。
そもそもが50キロ前半の体重である私の体には6キロの重りが、文字通り重くのしかかるのでした。
移動式レントゲン撮影機械
牽引二日目、5.5キロで牽引された骨がきちんと真っ直ぐになっているか確認していただきました。
どうやったのかというと、なんと移動式砲台・・・ちがうちがう、移動式レントゲン撮影機というものがあったらしく、病室に、1.5メートルほどの機械がやってきました。
レントゲン技師は、私が入院した時にキョドっていた「 芸人の宮下草薙の草薙さんに瓜二つ 」の、あの技師さんです。
案の定、今回もキョドりまくっていました。
本体から伸びているアームがあり、そこから撮影できる箇所がヘッドについているのですが、アームには、稼働可能と思われるべき箇所が2か所ありつつも、どうやってその稼働個所を動かしていいのかわからない様子。
動かし方がわからなかったため、アームとヘッドを強引に足の上に移動させていたため、本体がベッドにガッツンガッツンぶつかり、小さな痛みが生じるも、「まあしょうがないか・・・」とあきらめて撮影をされました。
その撮影結果をもとに、骨が真っ直ぐになったかをご判断いただき、「重りがまだ足りない」と増やされた結果、6キロのダンベルが私の脚を牽引するに至ったわけです。
Q. わ、、、私のかかと、まだ足についてる?
A. 大丈夫です。
当然ですが、踵(かかと)が脚から外れて落ちるなんて言うことはありません。
あなたはプラモデルやレゴではないのですから、くだらないことを考えずに、しっかりと治すことを頑張ってください。
Q&A方式を一人プレイしてみました。
「真っ直ぐになったら、手術します」や、「患部の水疱が治ったら手術します。」等のお話があり、この牽引期間は、手術部位の水疱やら骨のずれが良くなってくれるように祈るばかりとなりました。傷が良くなってくれることでございました。
足からかかとがはずれて落ちるということにはなっていませんでいた。
この牽引する期間、願うは足の手術部位に当たる箇所の傷が手術予定日までに良くなってくれることでございました。
足のむくみのピークは、骨折から四日間ほど続きましたが、足を牽引し、つま先が一番高い位置に固定されたことで太股の方向へむくみ解消され、どんどん腫れは引いてきました。
ただ、そうはいっても以前の足の細さの二倍にもなっていたため、看護師さんはむくみを押し分けるようにしなければ足の甲の脈をとることができず、みな一様に、脈を取ると首を傾げるという動作が生まれるようになっていました。
「あまり首を傾げられると不安になります」と伝えると、看護師さんに伝わる「脈はここです!」という印(麦わら海賊団の×マーク)みたいなものをつけられたため、脈をとるときに首を傾げられる動作はなくなったのでした。
あと、なんか色々書こうと思ったけど、入院後の説明を延々と一日づつ行うのも何だな。。。
だらだら書かない、簡潔にしましょう!
1.骨折名称が、いつの間にか変わってる?
あれ?脛骨と腓骨という、二つの骨の複雑骨折だったのに、主治医から説明を聞くと、高原骨折(プラトー骨折)という名称に変わってる?
もちろん、脛骨・腓骨も折れてはいます。
ただ、何を目的に治すかと言われたら、高原骨折をしっかり治すことが大きな目標になるのでしょうか・・・
後遺症が残りやすいのが、プラトー骨折にあたるといわれれば、そうかもしれませんね。
変形性膝関節症という後遺症もあるようです。
2.同室の人と仲良くなりました!
同室の方とも打ち解けることができ、各々の経験談など話をすることで、気持ちが紛れ、ただ待つという時間だけではなく、多少なりとも建設的な気持ちになれたことは、気持ちを持ち直す一助になったと思います。
ちなみに。ここまで記載すればご想像の通りかとはおもいますが、大部屋(6人部屋)に入院をしました。また、私の骨折の状態はえらいことになっていたということもあり、入れ替わりくる看護師さんたちにも、大変だったねと声をかけていただけたことも、気持ち的に助けられましたが、同時に「やっぱり大変な骨折なんだな」と自覚をせざるをえませんでした・・・。
3.持つべきものは、やっぱり一番のサポーター「妻」!
入院期間中、かなり自分の心を救ってくれたのは、妻のサポートがあるからこそでした。
車で20~45分かかるような場所に、毎日足繁く通ってくれて、必要な物を用意してくれたり、雑談を聞いてくれたり、話をしてくれたり。
ほしいと言ったものを手配してくれたりと、歩けない、自由が効かない自分の代わり以上に、様々なサポートをしてくれたため、そこまでどん底な気持ちにならなくてすんだということです。
感謝してもし足りないというくらい、気持ちが救われました。
もう二度と、こういったことで大変な思いをさせないようにしないといけないと思い、スポーツをするにも強度が高いものは二度とやらないという事を心に決めたのでした。